けあぷらの泉

ファイル1 命の水筒 ハルビンから故郷まで 関口和五二さん

昭和5年、埼玉県秩父に9人兄弟の5番目として生まれた
関口(せきぐち)和五二(わごじ)さん。

昭和19年、茨城県内原の満洲鉱工青少年技術生訓練所で5期生として学び、満州国ハルビンに渡り、翌年、終戦を迎える。
引き揚げの体験を語ってもらった。

技術者になるため中国へ

訓練所から母宛てに書いた葉書

「自分は自分の体であるが一旦満鉄に入った以上は御国の体であるから、心配致す事は少しも有りません。自分も立派な技術者とならない中は絶対家に帰らない覚悟です」

昭和19年7月5日に訓練所から秩父の母に宛てた葉書だ。

技術員養成所卒業証明書

「満洲で勉強して指導者になれる」と言われ、学校から応募し、故郷秩父を離れ訓練所に入ったのが14歳のとき。

「満洲鉱工青少年技術生訓練所」は、戦時下の軍需生産力拡充で技術者を必要とした満州国政府が、青少年の基本訓練をするため、昭和16年、茨城県内原に新設した。

内原で2カ月の訓練後、釜山経由でハルビンに渡り、南満州鉄道株式会社哈爾浜(ハルビン)鉄道局技術員養成所で物理や化学を学んだ。

勉学中に終戦

14歳の頃ハルビンで

休日に、寄宿舎から町に出て写真屋で撮った写真。

支給された暖かそうな外とうと帽子は、マイナス30度や40度にもなる現地の寒さをしのぐための制服だ。
勉強しながら生活費を支給され、半分を日本に送金。

昭和20年8月15日。技術員養成所で放送を聞き、日本が負けたことを知る。
生活費は支給されなくなり、自分ひとりで生きる毎日が始まった。
寄宿舎から外に出ると、中国人につばをかけられたり、棒でたたかれたりした。
日本人会に教えられ、日本人収容所になっていた花園小学校へ行くも、生活費が欲しく、ロシア人が経営するパン屋、中国人が経営する床屋に住み込みで働く。
先輩や日本人会に聞き、ピーナッツ、タバコ、まんじゅうを仕入れて売ったこともある。

人の死が日常

職を失い避難所に戻れば、アワやコーリャンなど最低限の食べ物と竹で編んだ敷物を敷き詰めた寝床はあったが、栄養状態が悪く体中にしらみがわいた。
平らな床に服を広げ、一升瓶を転がし、服を振り、シラミを退治。

習字教室で

寒いときは、服を外に出せば、シラミが死んでしまうほどの寒さだった。

収容所では毎日、何人もの人が亡くなった。一日平均30人とも聞いた。
シラミが移ってきて、隣の人の死に気付くことも。

人が亡くなると、切った髪の毛を紙で包み、名前、年齢、本籍が書かれた。
硬直した体を足で踏んで真っ直ぐにし、ござにくるんで、丸太のように馬車に積まれるのを見た。川に運び捨てると聞いた。
ごく当たり前のことで、悲しいとも何とも思わなかった。

母子の家族として

生活費が欲しい、別々に生きることで共倒れにならないように、我が子を売る人もいた。

命の水筒

自ら養子に行くと決め、親になる人が迎えにくることになったが、9月に日本に帰れるという話を耳にし、引き揚げグループに入る。

引き揚げるためハルビンの駅に集合したときに持っていたのは、ハンダ付けのブリキ製水筒だけ。

一升瓶より大きかった記憶があり、収容所で沸かした水をもらい入れていた「命の水筒」だ。

水筒の入った木綿袋には、故郷、秩父ではなく長崎の住所が記されている。
引き揚げに当たり、幸運にも、日本人会の紹介で長崎造船所の工場長の妻である藤井沢子さんと出会う。
夫をソ連に連行され、小さな子を連れて長崎に帰るため荷物を持ってくれる人を探していた。
荷物を持つ約束で、家族を装い日本までの道中を同じくしたのだ。

落伍しないように歩く

帰国後、藤井さんから届いた葉書

日本からハルビンまで往路は4日だったが、帰路には40日以上かかった。
爆破されたため線路が途切れたところは、次の駅まで歩く。

ひとり残されればオオカミの餌食になるような荒野で、落伍しないように歩くのが精いっぱい。
ぐったりした子を背負った女性に「赤ちゃんがおかしいよ」と声を掛けても、負ぶい続けて歩く女性の姿があった。
列車が待っているところまで歩き、列車に乗る。その繰り返し。
列車といっても、木材を乗せる荷台で、略奪を避けるため、真ん中に置いた荷物を囲み、スクラムを組んで座った。

「みんなで日本に帰ろう」「帰ったら大福を食べたい」「みそ汁を飲みたい」寄れば食べ物の話になった。

不安と希望の船旅

ハルビンから長春を経て錦洲(きんしゅう)から船で葫芦島(ころとう)へ渡り、日本行きの船に乗った。

煙突に十字のマークがある「ほうゆう丸」という輸送船だったと記憶する。

どんなに困っても周りは皆日本人という安心感はあったが、「ソ連に連行されるのでは」と誰もが不安だった。
玄界灘では台風に遭遇。荒れた海では、大きな波を越えては地獄に落ちるような感覚を繰り返し、恐ろしかった。

いざ故郷へ

「引揚者のみなさん。長い間ご苦労さま」と書かれた横断幕を見て初めて「本当に日本に着いたんだ」と安堵を覚えた。

藤井さんから少しのお金を手にし、舞鶴から上野まで引き揚げ専用列車に乗る。
始発で座れたが、途中から人が乗車し、網棚や床に人があふれていた。
上野の駅舎で一晩過ごし、高崎線で熊谷、秩父線で故郷へ。

空襲を受けることのなかった故郷の風景は、変わらずだった。
小石を見ても、思わず涙が出た。
懐かしい家の玄関を入っても、土間で呆然と立ち尽くすばかりだった。

「早くあがれよ」
びっくりした母の言葉に続き、父も現れた。
帰郷した10月10日は、折しも地元神社の秋祭りの日。
満洲に渡ることを決め、出発前に無事を祈った神社だった。

「神に守られた」そう思った。

気が付けは、ハルビンを出るとき藤井さんが新調してくれたズボンは、あちこち擦り切れていた。

心の中に続く戦争

「ヤー○※×…」

今でも口をついて出るロシア語のフレーズ。
「私は満鉄の社員です」という意味だ。

体操指導中の関口さん

万が一、ソ連に連行されそうになったときに備えて覚えたロシア語だが、幸い使うことはなかった。
しかし、自分の中では、いまだ戦争は終戦でも歴史でもない。
心の中に映像のようにはっきりと残り、続いている。
思い出すと寝付かれなくなる夜もある。

届くことはなかったが、14歳の少年が親に宛てて遺言状を書くなんて正常ではない。
人と人が殺し合うのが戦争。

少し前までは自主グループの「戦争を語る会」に参加したり、手紙を通じて引揚者と交流があったが、高齢化し今は、そういうこともなくなった。
しかし、機会があれば出向いてでも同じ経験をした人と会い、語り合いたい。

想い出 同窓会 昭和54年8月

今宿地域ケアプラザのオープン当初から、シニア体操の先生として活躍なさる関口先生。
「戦争を体験していない人には分からないから、家族にもあまり話してこなかった」と。
50代の私には想像もつかない体験を聞くにつけ、こうして先生にお会いし、話を伺えることが奇跡のようにすら思えてなりません。
たやすいことではないのは重々承知の上で、この『けあぷらの泉』コーナーでは、語り部の体験や知恵を少しでも伝えられれば……と思います。
どうぞお付き合いください。

(平成27年7月記)