けあぷらの泉

ファイル3 強運の男 神風特攻訓練中に終戦 多田永之助さん

昭和19年9月、日本が敗戦に向かって急転する中、第15期(第2次)海軍飛行専修予備学生として土浦航空隊(茨城県)に入隊した1933名の青年たち。

その中に21歳を迎えたばかりの多田永之助さんはいた。

航空特攻幹部要員として死を覚悟し訓練を受けながら翌年、終戦を迎える。

広島市内にあった実家を家族もろとも原爆でなくし、裸一貫からのスタートだった。

ハンモックで寝起き

早朝、「そーいん(総員)、おこーし(起こし)!!」

土浦の兵舎に拡声器からラッパの響きとともに起床の号令がかかると、眠っていた予備学生たちは皆、ハンモックから飛び起き、練兵所へ走った。
「訓練は徹底的で、つらいことがほとんど」と多田さん。
特に記憶に残るのは、朝に夕に行われた駆け足だ。
走れなくなってしゃがみこむ者、倒れる者は「きさま何してる!」と殴られた。

土浦海軍航空隊訓練風景(剣道・平行棒)

土浦海軍航空隊のパンフレットから

得意な射撃訓練

実弾射撃訓練では的を出したり、整備係を任され信頼されていた。
射撃歴は中学5年生にさかのぼる。
軍隊からきた教官に訓練を受けた。「射撃が好き」と話したところ「射撃部を作れ」と言われ射撃部を立ち上げた。
許可なくしては入れない軍の射撃場に連れて行ってもらったこともある。
高等専門学校時代、射撃部で全国射撃大会に出場するほどの腕前だった。

古いアルバム

終戦前年、土浦航空隊入隊

多田さんは1923年(大正12年)9月6日、大阪で長男として生まれた。
算数が得意な優等生で「もっと勉強したい」と大阪府立天王寺中学校を受験し合格。
最上級学年の5年生のとき生徒会長を務めた。
その後、現大阪府立大学の前身である大阪高等工業専門学校精密機械科に入学。
戦況が悪化する中、昭和20年3月の卒業を待たず、19年9月に海軍飛行専修予備学生として土浦航空隊に入隊し予備士官となる。

大阪高等工業専門学校精密機械科3年の頃の多田さん
(昭和19年)

大阪高等工業専門学校精密機械科の学生時代

海軍航空予備学生

土浦海軍航空隊雄飛館前で(昭和19年10月22)

海軍航空予備学生(のちに海軍飛行科予備学生、さらに海軍飛行専修予備学生と呼称が変更となる)が発足したのは、海軍における航空戦力の重要性が認識され始めた昭和9年。
飛行機搭乗士官の不足に備え、海軍が旧制大学・高等専門学校の卒業生から志願制によって採用した。
昭和9年に第1期生6名の採用からスタートしたが、昭和18年の第13期生入隊数は5200名とピークを迎える。
背景には、16年に開戦した大東亜戦争の戦局悪化、18年の学徒出陣、19年神風特別攻撃隊の編成がある。

15期海軍飛行専修予備学生・学生隊第14分隊第5班
(前列左から4番目が多田さん)

昭和20年10月30日の広島行きの切符(左上)

グライダーを操縦

滑空訓練はグライダーによるものだった。
航空燃料不足に加え、航空機の生産も練習機まで手が回らなくなり逼迫した状況で、航空要員の飛行訓練はグライダーに頼らざるをえなくなっていたのだ。
エンジンのないグライダーは人力で機体を引っ張り、後部に付いているゴムの力で飛ぶ。
初めは平地で、やがて山の上での訓練となる。
操縦席前方にカバーが付いたグライダーは操縦が難しく上級者用、初級者用は前方にカバーがないため操縦はしやすいが、風をもろに受ける。
「他の人は飛び上がる前に落ちたり横滑りになったが私は操縦がうまかった」と目を細める。

アルバムの中の適性飛行写真(下)

攻撃機

水上偵察機(下)

航空特攻幹部要員として死を覚悟

「15期生は出撃することはなかったが、神龍(じんりゅう)特攻隊と呼ばれていた」と多田さん。
インターネット上のフリー百科事典(ウィキペディア)で調べると、「神龍」は「大日本帝国海軍が太平洋戦争中に試作した特別攻撃機」とある。
「特攻隊員に早くなりたい」と口にしながら、心の中では家族を想い、知識を生かし社会人になりたい気持ちもあった。

しかし「片道しかない」と教育され、上手に敵艦に体当たりすることだけを考えた。
「死に急ぎ訓練だった。終戦が伸びていたら神龍に乗っていたかもしれない」と。
神風特別攻撃隊の戦死者2511名の中に予備学生・生徒出身者は648名を数える。
15期生に特攻戦死者はなかったが、13期生は443名、14期生は158名が特攻隊として出撃し帰らぬ人となった。

喫茶店でのひととき

厳しい訓練生活の中、ひそやかな楽しみもあった。
土日に許された外出だ。
軍服、軍帽、腰に短剣をさして阿見町(あみまち)へ繰り出し喫茶店で過ごした。
学生時代からレコード好きで、こっそり出してくれた洋楽レコードを音を小さくして聞いたこともある。
「海軍少尉」の名刺を差し出し、いくらかお金を包み民家に泊めてもらった。

予備学生の頃の名刺

当時の短剣を身につけて

死ぬことから生きることへ

予備学生の頃身に着けていた帽子や短剣

終戦を土浦航空隊芦原(あわら)派遣隊として福井県の芦原温泉で迎える。
「ぽっかり穴があいた」と多田さん。
今まで死ぬことを考えていたが、生きなければならない現実があった。「軍隊で支給されてきた月給、寝るところ、飯はどうなるのか?」

原爆投下後の広島で

当時の帽子をかぶって

新聞やラジオで8月6日の広島原爆投下を知る。
大阪高等工業専門学校の学生時代、家族は広島市内に移り住み、母親が芸者屋を営み弟や妹を養っていた。父親は早くに亡くなっていた。
8月の終わりころ、骨を拾う覚悟で広島を訪ね、廃墟の中で奇跡的に母の骨を探し当てた。
「見つかった、見つかった」と興奮する多田さんを親戚がカメラに収めてくれた記憶がある。

自転車メーカーからバイクに参入

その後、いとこが勤めていたのが縁で、大阪の自転車製造会社「大日本機械工業」に入社。
昭和23年に、自転車性能試験大臣賞を受賞するほどの技術力を持つ会社で、精密機械科卒の多田さんは製造から営業まで幅広く活躍する。
時は朝鮮特需に沸き、経済復興に弾みがかかり自転車メーカーがオートバイの新市場を目指すことに。
「自転車と外国製のバイクを並べて、自転車にエンジンを搭載できるように開発した」と多田さん。
川崎重工業の子会社から提供してもらったエンジンを搭載した自転車の誕生だ。
やがて大日本機械工業は業績不振のためバイク産業から撤退するが、新しいバイク会社を立ち上げる。
その頃のバイク市場「ホンダ」「ヤマハ」「スズキ」に割り込んだのが「カワサキ」だ。
「カワサキ」では1号〜10号機まで開発にかかわる。「作っては売れたので苦労はなかった」と当時を振り返る。

大日本機械工業社員の頃の名刺

昭和22年

自転車性能試験大臣賞受賞記念写真(昭和23年)

同僚と

会社員の頃の多田さん

もし浪人しなければ…

くつろぎカフェ・音楽喫茶で

会社の事務職員だった女性と結婚し一男一女に恵まれ、現在は奥様と二人暮らし。
奥様が用意してくれた古いアルバムを開きセピア色の写真を眺めながら「我ながらかっこいいねえ。おれもいい男だった」と昔を懐かしむ。
相変わらずレコード好きで、今宿地域ケアプラザで月1回開催される「くつろぎカフェ・音楽喫茶」に毎月、足を運びレコード音楽に耳を傾ける。
「実は私、浪人したんです。もし浪人せず14期生として入隊していたら特攻に行っていたかもしれない。予備士官だった自分は原爆にもあわずに運が強い」
レコード鑑賞の合間に静かに語ってくれた。

参考文献について

昭和63年発行の海軍飛行科予備学生・生徒史

文中の予備学生に関する記載や数字は、多田さんが提供くださった『海軍飛行科予備学生・生徒史』(「海軍飛行科予備学生・生徒史刊行会」昭和63年発行)を参考にしています。
この本は、生き残った飛行科予備士官が予備学生・生徒の11年間の通史を書き残したいと編集委員会を発足し刊行したもの。
そこにある神風特別攻撃隊戦死者に関する記述に「少尉候補生以上の航空特攻幹部の戦死者は769名で、その84・5パーセントが予備学生・生徒出身者であった」という事実は、私にとって衝撃的でした。
本には予備学生の歴史の他、当事者の回想録や255名から回答を得た興味深いアンケート結果も掲載されています。
ほんの一部ですが、書き留めておきたいものをいくつか紹介します。

質問― 予備士官ということで差別を受けましたか
回答―

◎君達は予備(スペアー)だと頭からいう司令に今も憤りを感じている。

◎消耗品ということで真っ先に戦場に行かされた。

質問― 神風特別攻撃隊をどう思いますか
回答―

◎海軍で飯を食ってきたプロ(職業士官、下士官)が、この天王山の戦いに特攻出撃せず、素人の実戦未経験者ばかり(予備士官、予科練の若手)を特攻に出すのが不思議で仕方なかった。

◎当時は当然のことと思ったが、今は気の毒に思う。優秀な若者を大勢失い過ぎた。

質問― なにを後世に言い遺したいですか
回答―

◎特攻で散った予備士官達は、平和と自由、学問を愛し、軍人嫌いな者が多かったことを知ってほしい。

◎戦死した予備士官達は、君達と同じように軍人以外の人生計画があったことを。

◎もう二度と「お前達の命をよこせ」というような権力を与えてはいけない。

とても悲しいお知らせです。お話をお伺いした多田永之助さんが7月14日に永眠されました。

7月11日の「くつろぎカフェ」で、この原稿をお渡ししようと準備していたのですが、いらっしゃらなかったので心配していた矢先のことです。
予備学生と予科練の違いも知らない私に、ついこの間のことのように丁寧に語ってくださったのが印象的でした。心より感謝いたします。
貸していただいた本を拝読し少しは理解を深めたので、これからもいろいろとお話するのを楽しみにしていたのですが…悔やまれてなりません。ご冥福をお祈り申し上げます。
最後になりますが、平和と自由を謳歌できる世の中であり続けることを望んでやみません。

(2018年7月記)

錨のマークが付いた帽子

短剣

錨のマークが付いた白い帽子

肩章とボタン

後に15期生で作った旗