けあぷらの泉

ファイル4 くじら獲り物語 船団を組んで氷の海へ 安井敬一さん

今宿地域ケアプラザの「サロン今宿」に時折立ち寄る安井敬一さん(90歳)。
捕鯨全盛期、捕鯨船船長として南氷洋(南極海)や北洋で鯨を追いかけた船乗りだ。ライターの娘さんに寄稿してもらった。

国際捕鯨オリンピックで競う

昭和30年、27歳の若さで捕鯨船船長になった父、安井敬一(昭和3年名古屋市生まれ)。

折しも南氷洋では各国の船団が捕鯨を競う闘いを展開。我先に少しでも早く多くの鯨を捕獲する方式は、金メダルを競うオリンピックに例え「国際捕鯨オリンピック」と呼ばれ、南氷洋捕鯨は花型産業として脚光を浴びていた。

そんな中、横浜に帰港した際、朝日新聞など複数の新聞社から捕鯨状況について船長としてインタビューを受けたこともある。

サロン今宿のボランティアさんと話が弾む

捕鯨砲と見張り台を備える捕鯨船

船長への憧れ

安井敬一の父、安井友右衛門は名古屋で材木商の輸入材の立ち合い検査を行っていた。名古屋港に運ばれる材木(主にラワン材)を受け取るため、船長の船室にたびたび出入りする。

友右衛門から「船長室は立派でピアノがある」と話を聞き、船長に対する憧れの念を抱く。

友右衛門はバナナ、マンゴなど南洋のフルーツや椰子の実を船長から土産にもらうこともあり、敬一は海や異国への思いを募らせた。

「船長になりたい」という憧れを現実にすべく昭和21年、函館水産専門学校(現、北海道大学水産学部)遠洋漁業科に入学、5年間学ぶ。縁あって昭和26年、極洋捕鯨株式会社に入社する。

ボート部だった遠洋漁業科の学生時代(一番右)

極洋捕鯨株式会社と南氷洋捕鯨

極洋捕鯨株式会社は、南氷洋捕鯨事業に着目した実業家により昭和12年に設立。13年、初代極洋丸が第1回南氷洋捕鯨に出漁する。

当時、南氷洋捕鯨事業には世界各地より30船団が出漁しており、そのうち日本は6船団を占め、内訳は日本捕鯨(後の日本水産)3船団、大洋捕鯨(後の太洋漁業)2船団、極洋捕鯨(後の極洋)1船団であった。

昭和16年、太平洋戦争が始まり、母船、捕鯨船のすべてが海軍に徴用される。戦後、昭和21年にGHQは「日本国民の食糧確保のために南氷洋捕鯨を許可する」という方針を発表するが、すぐに母船を用意できなかった極洋捕鯨は、日本水産と大洋漁業の船団に捕鯨船のみを出航させる形で南氷洋捕鯨に参加した。

それから10年後。昭和31年、極洋捕鯨はギリシャ人よりオリンピック・チャレンジャー船団を購入、母船を第2極洋丸と命名し、悲願の南氷洋捕鯨単独船団出漁を果たす。

昭和35年には、英国より南鯨バリーナ船団を買収、母船を第3極洋丸と命名し、2船団の夢が実現する。

このバリーナ船団購入時、捕鯨船7隻の1隻「セッター9号」を、船長としてノルウェー・オスロに受け取りに出向いたのが31歳の敬一である。昭和35年は、日本が捕鯨捕獲量で世界一を達成した記念すべき年でもあった。

参考文献

セッター9号

セッター9号は、日本の雑誌『漁船』にも紹介された新鋭捕鯨船だ。昭和28年イギリスのグラスゴーで建造され、総トン数754トン、機関1600馬力×2基、一軸可変ピッチ・プロペラ(CPP)装備で、第17京丸と命名される。

当時まだ珍しかった可変ピッチ・プロペラは、スクリュープロペラの羽根の角度を変えることができるため、前進後退、速さの調整が自在。敬一は、操船の要領を習得するべく三菱横浜造船所でCPP装備の大型タグボートに体験乗船して備えた。

昭和35年10月10日、数名で日本を出発。ノルウェー・オスロまで初めての飛行機、翌日から新鋭捕鯨船の受け取り作業に胸は高鳴った。

この第17京丸は装備点検後、ノルウェー人の機関士を乗せドーバー海峡を通過し、南アフリカ共和国・ケープタウンに入港。日本より南鯨用資材を積んできた極星丸から資材を受け取り、12月8日、第3極洋丸と合流、鯨漁を開始。翌年3月26日捕獲枠シロナガスクジラ換算(BWU)845頭を達成した。操業日数88日間で、第17京丸の捕獲は119,5頭。船団内では第3位の成績だった。「第17京丸は可変ピッチ・プロペラゆえ速度が速く、鯨がくたばるまで追尾できた」と敬一は振り返る。

シロナガスクジラ換算(BWU)とは捕獲枠をシロナガスクジラの産油量を基準に定めたもので、シロナガス1頭を1BWUとし、ナガスクジラでは2頭、ザトウクジラでは2,5頭、イワシクジラでは6頭で1BWUと換算する。

ケープタウンのテーブルマウンテンとライオンズヘッド

ケープタウンでテーブルマウンテンをバックに(左)

山下竹弥太氏との出会い

「安井を私の船長に」と人事部に推薦してくれたのは、腕利きの砲手、山下竹弥太(明治44年生まれ)である。

山下は昭和12年、「優秀な砲手を」と所望され大洋漁業から極洋に移籍。入社一年にして砲手として船団一の捕獲成績を挙げるほどの凄腕だった。

また、鯨を静かに追いかける通常の追尾ではなく、まず鯨を驚かせ、飛び出したところを追いかける独自の追尾方法を確立。

その豊富な知識と経験を生かし砲手兼捕鯨監督として捕鯨技能者を育成もしてきた。

彼に初めて会ったのは学生時代の社船実習で極洋の捕鯨船に半年乗ったときだ。

強面が印象的で、捕鯨のイロハについて厳しい指導を受ける。

極洋がまだ母船を持たずに、捕鯨船が捕獲した鯨を日本水産に丸売りしていた頃、日本水産の一番砲手と鯨の数を競い、惜しくも負けて悔しかったことが忘れられない。

一等航海士だった敬一を、「俺の船長は安井でなければいかん」と推薦してくれたのも山下で、南氷洋・北洋鯨漁を9回も共にする光栄を得たのだった。
「この人に気に入られる人は少なかった」と敬一。

ロープの先のモリが鯨に命中すると火薬が爆発する

船首に備え付けられた捕鯨砲

捕鯨船団

にぎやかな音楽隊の演奏、大勢の見送りの中、母船の甲板から岸に投げられる色とりどりの紙テープを受け取り、しっかり握る家族がいた。

幼児だった私は母に連れられ横浜港から出港する父、敬一を見送った記憶がある。

華やかで盛大だが、どこかもの悲しさを肌で感じていたのは、半年ときには1年近くという長い別れを子ども心に知っていたからだろう。

捕鯨船団の規模は、そのときの捕獲数により異なるが、通常母船1隻、捕鯨船十数隻、冷凍工船1〜3隻、タンカー1隻、運搬船数隻、総数20隻以上の船で構成される。

中でも定員4〜500人、約2万トンと一番大きいのが母船だ。母船は、捕鯨船が獲った鯨を解体処理するほか、洋上で捕鯨船に水や燃料、食料を補給し、必要とあれば捕鯨船の修理、傷病者の収容と文字通り率いる船の母親的な役割を果たす。

花形はキャッチャーボートとも呼ばれ、通常の漁船より高い船首に捕鯨砲がすえつけられた捕鯨船だ。ブリッヂ(操船する所)から船首にかかる細い橋は砲手橋と呼ばれ、高いマストの上に鯨を発見する見張台がある。ブリッヂは高いが重心が下にあるため復元力が強く、鯨を追尾する際、方向転換に都合よく設計されている。定員24人、400〜800トンと小さな船体の割に、大きな馬力のディーゼルエンジンを持っているのが特徴だ。

母船で解剖された鯨肉を冷凍しパッキングするのが冷凍工船(約1万トン、定員200人)で、後から追ってきた複数の運搬船により冷凍鯨肉は日本や欧州に運ばれた。

タンカーは船に燃料を給油すると同時に、空になったタンクに鯨油を入れて欧米に輸送する役割も担う。

通常、10月に探鯨船が先発し、次いで捕鯨船を伴った母船が盛大な見送りをうけて横浜港や大阪港を出港。20日ほどかけて到着する南氷洋は氷が溶けて鯨のエサのオキアミが増える初夏を迎える。100日あまりの操業を終えて帰港するのは翌年3〜4月だ。その後すぐに北洋捕鯨に向かい、戻るのは9月か10月となることもしばしばあった。

これら近代捕鯨をリードしたのはノルウェーで「ノルウェー式捕鯨」と形容される。その技術革新のひとつが1864年に開発されたロープ付きモリを発射できる捕鯨砲を備えた捕鯨船だ。ロープでつながっているため鯨が海の底に沈むことがない。その後、鯨を船内に収容するための取り込み口(スリップウェイ)を船尾に装備した母船を開発。鯨を引き上げ甲板で解体することを可能にした母船式捕鯨は、港に戻らず洋上での操業を可能にした。

出港する船を見送る家族

日本の南氷洋・北洋の捕鯨漁場(極洋捕鯨30年史より)

捕鯨船団の構成(極洋捕鯨30年史より)

捕獲した鯨を引き揚げる母船の取り込み口
(スリップウェイ)

捕鯨船船長の仕事

捕獲した鯨を集める捕鯨船

GPSなどなかった時代、 船長は手計算で洋上での位置を確定した。駆使したのが天体の高度や角度を測定する計器、六分儀(ろくぶんぎ)だ。昼なら太陽、夜なら星を目安に天測表とクロロメーターと呼ばれる高精度な携帯用ぜんまい時計も使い、現在地を把握した。

「3分以内に天測で位置を正確にとらえられる人は少なかった」と敬一。

捕獲した鯨は、その都度、目印の旗を立てて浮かせておく。複数の鯨を後から効率よく集め、母船に運ぶのが捕鯨船船長の大切な役目である。

捕獲した鯨を全て集められない船長は信用を落とすが、位置を正確に記録し確実に集鯨する敬一は、特に鯨を仕留めた砲手の信頼を集めた。

また、船長にとって乗務員の安全管理は、最も重要な仕事のひとつだ。敬一が船長のとき、命を預かっていると実感したことがある。

捕鯨船はデッキが低く、波をかぶりやすい。あるとき仲間が一人、大波にのまれ海に落ちた。

すぐに向きを変え戻ると黄色い作業着が浮いているのを発見。エンジンをかけたまま近づくと海が渦を巻き危ないので、少し離れたところから彼に命綱をつけて引き揚げた。心臓マッサージを施し冷えた体を温め、母船に乗船する医師の元で回復。胸をなでおろす。

ある船で捕獲した鯨の尾でたたかれた人が頭をデッキに打ち、大けがをしたと話に聞いたことがある。

氷山にも注意が必要だ。海上に見えているのは一部で、海中にはその9倍もの氷があると言われる。間違って近づきスクリューが曲がれば、オーストラリアに修理に寄らねばならない。目的地を氷山にはばまれ、迂回するため5〜6時間走ったこともある。

遠回りする、砲手が「行きたい」と望んでも断るなどして安全を第一としてきた。

安全運転に欠かせない氷山の確認

家族の思い出

「仕事に夢中で家のことを心配する間もなかった」と敬一。まさに高度成長期、世界一の捕鯨国の船乗りだった。

長女美幸、次女美恵の誕生の知らせは南氷洋で電報を受け取った。

現在のような連絡手段はなく、日本の社会情勢や漁業に関する情報は、週に1回ほどファックス受信したものを母船から受け取る程度。

南氷洋捕鯨中、楽しみだったのは、鯨肉を運ぶためにやってくる運搬船が届けてくれる妻からの小包や手紙。包にはせんべいやかりんとうなど駄菓子が入っていて、帰るときには家族宛ての手紙を託した。

ケアプラザ前にて夫妻で(2019年)

名古屋の自宅にて家族4人で(1963年)

恐るべし伊勢湾台風

妻・長女と(1960年)

昭和34年9月26日。

愛知県、三重県を中心に5000人以上の犠牲者を出した自然災害、伊勢湾台風が和歌山県に上陸。

たまたま漁の合間で名古屋市南区の自宅にいた敬一は、横浜の赤レンガ倉庫近くの港に係留していた船の保安責任者として呼び出されたが大きな台風に備え、横浜行きを断った。

長女、美幸は台風上陸の7か月前、34年2月に生まれたばかり。あっという間に家の中に入ってきた水から逃れ、押し入れの天井を破り、屋根裏で一晩を明かした。

「お父さんが横浜に行ってしまっていたら、母子とも屋根裏に逃げられずに水没していたかもしれない」とは妻、たか子の談である。

捕鯨船上での生活

捕鯨船は定員が24名だが、実際に乗船するのは21名ほど。船長、エンジンを預かる機関長、甲板でロープやモリの準備をする甲板長、ボイラーなど機械のメンテナンスをする操機長、他船と連絡をとる通信長が各1名。その他、甲板員、機械員、4時間交代で舵取りをする操舵手がそれぞれ数名。調理長と調理の手伝いや掃除をするボーイもいる。その中には和歌山の太地、宮城の鮎川、高知の土佐など日本で近海捕鯨に関わっていた乗組員も少なくない。

船上の生活はどのようなものだったか。夜のない白夜の南氷洋では、発見した鯨を全員で捕獲するため、ごろ寝をすることもあった。

食事は調理長が母船から補給される食材で調理。エネルギー補給源として鯨の肉をよく食したが、鯨肉が高価になってから食卓にのぼることが少なくなった。

暴風圏やシケのとき船が大きく揺れるため、食器が落ちないように、テーブルの端に付いているストッパーを上げ食事をした。

シケで操業できないとき楽しみだったのが、ゆっくり入る風呂。共用の風呂場に3〜4人が入れるバスタブがあり、温めた海水に浸かり、海水に溶ける石けんで体を洗い、最後に真水で体を拭いた。

3月上旬、南氷洋は冬を迎え、操業を終える。波をかぶった手すりがたちまち凍てつくほどの寒さで、厚手のキャンバス地の防寒具、万が一に備えて目立つ黄色のジャケット、耳あて付き帽子、手袋といういでたちだった。

薄暗い中、青く光る幻想的なオーロラを見たことも何回かある。

また、昭和31年より日本が南極に派遣する調査隊「南極地域観測隊」とケープタウンで一緒になることもあった。

サロン今宿で(2019年)

今宿ケアプラザの横浜緋桜と

つらい出来事

タンカーに横付けする捕鯨船

洋上で同期の友を亡くした。敬一が母船の漁労課長で船団指令に、彼は事業課長として鯨の解体及び製油に携わっていた。

事故は燃料や鯨油を受け渡しするため母船とタンカーが横付けしている最中に起きた。

母船とタンカーがぶつからないように、間に鯨を挟んでの作業になるが、船が大きく揺れて傾くことがある。作業を見守っていた彼は母船とタンカーに頭を挟まれたのだ。医務室に運ばれ船医の手当を受けるも死亡。

海上保安庁と遺族の許可を得て通夜、葬儀は船上でしめやかに執り行われた。遺体は日の丸の国旗、さらにキャンバスに包まれ、60キログラムのモリをつけた棺桶を海に沈めた。日本各地から集まるたくさんの乗組員の中には、お経を読める人、簡易の棺桶を作れる人がいた。

オリンピック方式から国別割当制へ

鯨資源の保存と有効利用、捕鯨産業の秩序ある発展を目的に1946年に締結された国際捕鯨取締条約に基づき設立された国際捕鯨委員会(TWC)に日本は1951年加盟。南氷洋捕鯨の世界総捕獲頭数は、シロナガスクジラ換算(BWU)1万6千頭の捕獲枠内で各国が競い合うオリンピック方式から、自主規制出漁を経て、国別割当制に移行。その後、鯨資源保護を理由に捕獲枠は毎年減り、1963年に1万頭、1967年には3200頭と制限された。

1968年、極洋捕鯨では捕鯨を除く漁労事業が捕鯨事業の売上高を上回り、その後、株式会社極洋に社名変更。1975年の北鯨、南鯨出漁を最後に翌年、捕鯨部廃止となり39年間の捕鯨は歴史を閉じた。捕鯨3社中心に設立された日本共同捕鯨が、その後の捕鯨を引き継ぐことになる。

母船では航海の無事と大漁を祈る儀式「赤道祭」の後、
運動会や演芸会が開催される

母船のデッキでロープ整備とワイヤー作り

種類の多い鯨

捕獲したマッコウクジラ

どうやって鯨を発見するのだろうか。

「双眼鏡を使って鯨の潮吹きで発見する」と敬一。斜めに潮を吹くのはマッコウクジラ、左右に分かれて潮を吹くのがセミクジラで、ナガスクジラ、イワシクジラは真上に吹く。潮吹きの高さで鯨の大きさも予測がつく。

普段は高さ18mの見張り台で甲板員が鯨を発見するが、鯨を発見した人には発見金(5円と記憶)が支給され、敬一自ら見張り台に上ることもあった。見張り台の梯子に片手でつかまり船が傾いたときに下を見ると、真下に海が見えたが「こわいものなしだった」と。

大きいがために乱獲されたシロナガスクジラはほとんど獲れなくなり、1964年に捕獲禁止となった。夫婦で泳ぐナガスクジラをよく獲ったが、やがてイワシクジラが捕獲の主流へと変わっていく。当時、ナガスクジラの売り上げは1千万円だったという。

捕獲して浮かせておいた鯨を集めたときに、シャチが鯨の腹にかみついていて離れず、解剖用の包丁で何度もたたいてやっと逃げ、シャチのしつこさを思い知った。

母船での鯨解体作業

鯨の骨から油をしぼり、カスは肥料などにする

サウスジョージア島で基地捕鯨の調査に

「こんな雄大な自然の中に、よく人が住んでいるものだ」と感心したのは、第16次南氷洋捕鯨終了後、第15京丸で敬一がサウスジョージア島に調査に入った昭和37年4月のこと。

サウスジョージアは、1904年キングエドワード湾のグリトビケンにノルウェー人が捕鯨基地を作った南氷洋捕鯨発祥の地だが、既に使用されなくなっていた。

昭和36年頃から南氷洋の捕鯨資源問題が厳しくなり、極洋でも新しい漁場を開拓するべく、頭数制限の緩やかだった外国基地捕鯨の検討を始めたのだ。 サウスジョージア島は、南アメリカ最南端のケープホーンから東へ約2千キロの距離にある全長180キロほどの細長い島。細心の注意を払いグリトビケンに入港すると、初めてきた日本人を10名ほどが出迎え歓迎してくれた。

3千メートル近い山がそびえ氷に覆われた島では、夜間静かになると氷河の氷が崩れ落ちる轟音が聞こえた。氷河から流れる小川に沿って海から上陸してきたペンギンやゾウアザラシがたくさん日向ぼっこし、近づいても逃げずに驚いた。

調査後、昭和38年に大洋漁業、国際漁業との3社共営でサウスジョージア島基地捕鯨を操業したが、基地使用料の高騰、捕鯨成績も伸び悩み採算割れしたため第2次事業をもって中止となった。

この島は現在「南極のガラパゴス」と呼ばれ、野生動物の宝庫として観光地のひとつとなり、廃墟となった捕鯨基地が捕鯨の歴史を物語っている。

昭和40年にはカナダ政府から要請を受け、ニューファンドランド島(北アメリカ・ノバスコシア北東の北大西洋に面した島)沖合の鯨資源調査に派遣され、当時カナダ政府海洋哺乳類担当官であったC・W・ニコル氏(環境保護活動家、後に日本国籍を取得)を訪問し、助言を得たこともある。

調査を終えサウスジョージア島を後にする

日本の捕鯨

日本の捕鯨は縄文時代にさかのぼるが、明治時代にノルウェー式捕鯨法が導入され、漁場が沿岸から近海へと拡大。西日本から東北や北海道まで捕鯨技術とそれに伴う捕鯨文化が伝播する反面、日本近海の鯨が減少した。そこで新たに南氷洋の鯨資源が注目され、日本も1934年(大正9年)から南氷洋へ母船式捕鯨に参入。1959〜60年の漁期には世界一の捕鯨国となる。

南氷洋捕鯨は国策を反映し、戦前は鯨油輸出による外貨取得のため、戦後は日本人のたんぱく質の供給源として行われ、捕鯨文化は子供向けの雑誌の付録や玩具、料理のレシピ、映画などへと新しい展開を見せた。炒め煮、みそ煮、焼きくじら、フライ、竜田揚げと学校給食メニューにバラエティーに富んだ鯨メニューが登場したのも昭和20年代後半だった。

しかし、日本の南氷洋での目覚ましい成果は、鯨資源の保護をめぐり反捕鯨国との対立を深め、1960年代以降、次第に国際的な捕鯨の規制が強まっていった。

1982年、国際捕鯨委員会で商業捕鯨モラトリアム(無期限停止)が採択。日本は異議申し立てにより1986年まで商業捕鯨を継続したが、1987年にアメリカとの外交上の経緯から、これを受け入れる。以降、日本では調査捕鯨(鯨類の資源状況に関する科学的情報収集を目的とする)と沿岸小型捕鯨のみが続けられた。

卒寿の祝い(2017年)

国際捕鯨委員会(IWC)脱退

日本は調査捕鯨で回復が確認された種類の鯨に限り商業捕鯨の再開を求めてきたが、豪州や米国、欧州連合(EU)、南米諸国が反対し認められなかった。

南氷洋での調査捕鯨すら続けられなくなるという危機感を抱いた政府は2018年、IWC脱退を表明。2019年7月から日本の領海と排他的経済水域内で商業捕鯨を再開する意向を表明し、メディアを賑わせた。

「反捕鯨国から非難」「国際協調に影」「鯨肉の国内需要は大きく減り、商業捕鯨を再開しても産業としての展望は描きにくい」など厳しい見方も強い。

脱退による商業捕鯨の担い手は、調査捕鯨を手掛けてきた共同船舶、IWCの管理対象外である小型捕鯨6業者の5隻にすぎない。また、IWC加盟が前提だった南氷洋の調査捕鯨は中止となる。

鯨と共に南氷洋を駆け巡った捕鯨船団の海の男たち、18年にわたり鯨を追い続けた父の心中は今いかに?

長くなりましたが、最後までお読みくださり感謝いたします。父の捕鯨人生を記録に残したいと2016年7月より始めた聞き取りは、3年にわたり10回ほどになりました。

国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し商業捕鯨を再開する7月を目前に、今宿地域ケアプラザのホームページ「けあぷらの泉」に掲載の機会をいただき大変光栄です。また、いつも温かく迎えてくださる「サロン今宿」のボランティアさんに心より感謝し、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。

僭越ではありますが、捕鯨に少しでも興味をお持ちいただくきっかけになれば幸いです。

(2019年4月、美幸)

新聞を賑わしたIWC脱退表明(2018年)

丹精込めた月下美人と(2018年)

参考文献
「くじらの海とともにー極洋のくじらとり達の物語」
「極洋60年小史」(発行 株式会社極洋)
「極洋捕鯨30年史」(発行 極洋捕鯨株式会社)