けあぷらの泉

ファイル5 故郷、友への想いを形に 旭区の歴史綴る冊子編集 横溝嘉則さん

昭和13年旧都岡村下川井町(現横浜市旭区都岡町)に長男として生まれた横溝嘉則(よこみぞよしのり)さん(81歳)。
生まれ育った旭区に恩返ししたいと『旭区の歴史と概要』(A5版75ページ)を自ら編集、製本した。
分厚い専門書とは異なり、誰でも気軽に手にとり簡単に旭区の歴史を知ることのできる便利な冊子だ。

冊子制作まで

都岡小学校、鶴ヶ峯中学校時代、恩師の住職から旭区の歴史を耳にし、友と雑木林や帷子川で遊び、育つ。
還暦を過ぎ、住職や檀家、会社社長など鶴ヶ峯中学校の多彩な同級生との旅の会で昔の思い出を語り合い、旧家の歴史にも興味を覚え、自分の見聞、経験を振り返りながら旭区の概要と歴史を綴ってみたくなった。

退職後、自治会、社会福祉協議会に関わる中、地域の人々から「旭区はどんなところ?」「いつごろから人が住んでいるか」「どんな有名なところがある?」と聞かれることも多く、70歳から資料を集め、代々、旭区に住む友人知人宅を訪ね、構想を練る。

恩師や友から情報や資料

例えば、江戸時代前から今の二俣川駅周辺を開拓した内田家の子孫である同級生の実家を訪ねたり、川崎市や旭区に住む旧家の歴史が綴られている貴重な資料「姓氏家歴録」(しょうじかれきろく)を友人宅で見せてもらった。

また中学時代、本宿の浄性院住職でもあった高嶋先生に徳川時代から伝わる寺の鐘を見せてもらった記憶をたどり、鐘について調べた。
さらに神奈川県立図書館、横浜市立保土ヶ谷図書館、神奈川県立公文書館、横浜開港資料館等で、『新編武蔵国風土記稿』『日本地名辞典』『旭区郷土史』、横浜の歴史の文献を調べ、自ら足を運び写真撮影し完成したのが『旭区の歴史と概要』だ。

本宿、浄性院の往鐘(S35年)

姓氏家歴録(旭区内の旧家の家歴が記述)

長源寺にある天然理心流漆原剣術道場奉納額

現在の尾根道緑道(水道用導水路)

故郷を知るきっかけに

冊子は前半で、都岡地区、二俣川地区、希望が丘地区それぞれの歴史や概要、神社、寺、史跡、学校などについてまとめ、後半では古老の話や自分の思い出などを語り、最後に、橋、高層ビルの写真で視覚に訴え読者を飽きさせない構成になっている。参考資料として旭区の道路地図、町名の変遷表もある。

故郷を知るきっかけにしてほしいと地元の中学校に寄贈。同級生や地域の人々、地域活動の拠点など300部ほど配布した。
希望が丘連合町内会の広報誌で紹介されると「譲ってほしい」と反響があった。
ウォーキングの際に携帯し便利と好評だ。
ナレーション、BGMを入れた30分ほどの映像にもまとめた。
役所など公共の場で待ち時間にテレビやスクリーンに映し出されるのにぴったりの映像だ。

冊子「旭区の歴史と概要」

自ら製本

小学1年生の時に終戦

どのような子ども時代を過ごしたのか。

戦中、旭区の被害は少なかったものの、防空壕にたびたび避難し、東南の空が真っ赤になっていたこと、アルミ箔が空から落ちてきたことを記憶している。
瀬谷通信隊を妨害するためだったと聞いた。
松林の多い上川井には、伐採された松の根の集積場があった。
零戦の燃料である松根油を採るのが目的で、それを運ぶ相模鉄道の線路が走っていた。

昭和20年2月、米軍グラマン機を迎撃する空中戦で、零戦が川井村の田んぼに墜落。後日、現場に行くと木塔婆に杉原と書かれていた。
4月、都岡国民学校に入学。8月15日、校庭で流された玉音放送に泣いている大人の姿を見る。
先生が刷ったわら半紙の教科書で学び、乾パン、脱脂粉乳、乾燥トマトジュースの給食でお腹を満たす。
優等生と評判の横溝さんは学級委員を務め、リーダー的存在だった。

1才

4才

7才

都岡小学校一年生(3列目 右から7番目が横溝さん)

本村町 宮沢学舎(明治時代)
出典「旭区20周年記念誌」

国民学校最後の成績表

都岡小学校(S36年)

鶴ヶ峯中学校(S28年)

身近になった米兵

校庭にある体育用倉庫に米兵が駐屯するようになったのもこのころ。
復員者が増え、治安維持のため各所に配置されたが、初めて見る外国人は体格がよくいつもニコニコしていた。
先生や親からは「近づくな」と注意されたが、好奇心旺盛で次第に声を掛け合うようになる。
「もらったチョコレートやガムは、忘れられないほどおいしかった」。
小学3年生の頃だったか、夜、家の玄関をたたく音に扉を開けると黒人兵が立っていた。
言葉は分からず身振り手振りからトイレを貸したところ、ジャックナイフを置いていった。
怖くなかったが、親は陰で木刀をもっていたのを後から知る。

酷道と呼ばれた国道16号

希望ヶ丘駅ができる前の雑木林(S21年)
出典「二俣川農協記念誌」

生まれた都岡町の家は八王子街道と中原街道の交差点近くで、古くから養蚕や炭焼きなど商業的に往来が多く、宿場や立場、商家で賑わった土地柄。
日蓮上人の碑、郡役所跡碑、徳川家康ゆかりの御殿丸があり、歴史に興味を抱くようになる。
戦後すぐ、八王子街道(国道16号)は厚木飛行場から横須賀の海軍基地への物資輸送のため国策で拡張整備されることになり、直線化工事が進められた。
「昭和20年秋頃、マッカーサー元帥がいつ道路を通過したかは覚えていないが学校から帰ると道路にジャリがまかれたり、家の物置が動かされたり、大人たちが竹やりを準備していた記憶がある」と横溝さん。
工事中から車の往来が激しく、駐屯軍の無謀運転で多くの友人、知人の家族が犠牲になった。
酷道と呼ばれた所以である。

センタービル着工寸前の希望ヶ丘駅周辺(S43年)

国道16号(S34年)

思い出深い鶴ヶ峯中学校

鶴ヶ峯中学校卒業式
校長と生徒会役員(S29年)

冊子を開くと一番に目に入るモノクロ写真が横浜市立鶴ヶ峯中学校の木造校舎だ。
昭和24年旭区で最初に開設された中学校で、昭和26年に入学。
旭区全域から集まる同級生とともに、生徒自ら校庭周りや校舎前にカンナを植えて校庭作りをした。
その先頭が、満洲帰りで体格がよく色黒の「黒パン先生」こと阿部先生である。
百両もある貨車を連結した満鉄の話から広大な中国大陸を想像したものだ。
バスケットボール部に入部し、2年生のときに保土ヶ谷区で優勝、横浜市で準優勝の成績を収めた。

鶴ヶ峯中学校バスケット部(S27年)
後列左から4番目が横溝さん

生徒会副会長として活躍

3年生のとき生徒会副会長に任命され、地区事務所からの要請でクリタマばち駆除に生徒有志で協力し、映画館で「神奈川ニュース」(神奈川ニュース映画協会制作)として公開され話題になった。

卒業式では代表として答辞を読んだ。副校長で三佛寺の住職でもある吉川先生と尾崎先生が交替で毎日教室に残り、ある時はローソクを灯して巻物に書きあげる。
お寺のお供物の最中や落雁の差し入れが今でも懐かしい。

ぶち抜きの教室で10分近く読みあげたところ、むせびなく同級生の声に自ら感極まり声がかすれた。
「良き友に恵まれた」と…

秋祭りと映画

娯楽の少ない時代、何より楽しかったのが秋祭りだ。
9月に入ると三嶋神社、今宿神明社、川井神明社、本村神社など日程をずらして開催され、家族や友と繰り出した。
麦わらを敷き、煮しめを食べながら見る田舎芝居は歌舞伎が多かった。

天王町の「永楽館」や「藤棚中央館」では洋画を見た。
「許されざる者」「誰がために鐘は鳴る」「風と共に去りぬ」で、イングリットバーグマン、アンバクスター、ビビアンリーの美しさに酔いしれる。
帰りに食べたアイスキャンディーは格別だった。
洋画の鑑賞記録を大学ノートに記録し、女優の肖像画をデッサン用の木炭で描いた作品は、我流とは思えない出来栄えで、なんでもとことこんのめり込む性格は今も変わらない。

川崎市内高校演劇祭(「太鼓」)

横浜高島屋ホール公演(「ひかりごけ」)

日本テレビ素人演劇合戦・お富役(S36年)

女優の肖像画を背景に

演劇活動

神奈川県立川崎高等学校時代は演劇活動に目覚め、演劇部に所属し、宇野重吉の「どん底」に感銘を受ける。

社会人になってもアマチュア演劇を続け、横浜高島屋ホールで2日間、公演し1000名近くを集めたこともある。

舞台の経験を生かし制作したのが、美空ひばりや楽団の人形がリアルに動く電動ミニ劇場で、今宿地域ケアプラザのデイサービスなど地域で公演し、好評を博す。

美空ひばりの人形がリアルに動く電動ミニ劇場

制作に3年かかった

故郷への想いを更に深めた海外生活

故郷を大切にする心は大手メーカーのセールスエンジニアとして30カ国以上、世界を駆け巡ったときに異国でも学んだ。
歴史、文化や建造物を大事にするヨーロッパ、ヨーロッパに比べ歴史が長くないアメリカやカナダでもしかり。
そのときの潜在意識が旭区への想いを更に強くしたように思う。

イギリス バッキンガム宮殿前

ブルガリア ソフィア
政府要人とのミッション

ユーゴスラビア ベオグラード市内

コロンビア 黄金記念館前

メキシコ市内

ベネズエラ カラカス市内

アフリカ大地

カナダB.C州 友人ご婦人と

アメリカ サンフランシスコ

インド 電力庁長官と

多彩なボランティア活動

57歳で民生委員に推薦されたのがきっかけで、自治会に参加協力、希望が丘東地区の社会福祉協議会理事、そして会長を務め、現在も顧問として頼りにされる。
会長時代に力を注いだのがボランティアグループ育成だったが、自らもボランティアグループ「コスモス会」の立ち上げに参加、尽力した。
司会進行を担当し老人ホームで、歌声喫茶、踊り、ダンス、詩吟など多種多彩な慰問活動に精を出した。
横浜市はもちろん、厚木、逗子、相模湖まで足を伸ばし、12年間の公演数は110回にも及ぶ。
また、映画好きが高じて八ミリ映写機から始めたライフワークの映像制作は、ビデオ時代を経て、地域行事、地域活動撮影に貢献し、現在も日本舞踊の舞台撮影を年4〜5回続け、大いに喜ばれている。

希望が丘東地区10周年記念祝賀式

日本舞踊 舞台撮影

ボランティアグループ「コスモス会」

お尋ねしたいことを箇条書きにしてお渡しして2週間後の取材当日。
パソコンで8ページに回答をまとめ、貴重な写真53枚を用紙に貼り丁寧にキャプションを付けてお持ちになった横溝さん。
その真摯で几帳面なお人柄に感服するばかり。
何でも挑戦し、バイタリティーに富んだ人生は、まだまだ続きそうだ。
旭区の歴史に興味をお持ちの方は是非、横溝さんにお尋ねください。
熱く語ってくださること間違いなし!

(2019年10月記)